テンションディスク物語

テンションディスク物語

opening[序章]

ARAYA時代開発室で自転車をいじってました。
事業部長の指示でマルイさんに自転車設計を週に一度指導に行くように言われたのがきっかけで、今日まで仲良くお付き合い頂いています。
実はこのマルイさんとのお付き合いが無かったらテンションディスクは世界的な発明にはならなかったのです。
当時マルイさんは、新規にtiogaブランドを立ち上げて自社開発製品を世界に販売する事業を始めました。開発プロジェクトチームを作り私も参加する事になりました。週一度では間に合わず土日も何度も通いました。
それでも私はサイクルスポーツに関わる夢を捨てきれずに自転車レースのコーチングを学びにARAYAを退職しヨーロッパ留学しました。
その後SUGINOに入りチーム監督と開発室に勤務しテンションディスクは誕生しました。
その誕生はリーマンショックで自転車業界がガタガタ倒れ、SUGINOもレーシングチームを解散し外注依存費を減らす再建プロジェクトを始めた時に誕生しました。
企業再建プロジェクトで私は異業種の方と沢山繋がりが生まれました。
テンションディスクは自転車界では無い違った方々の協力によって巧みに開発改良されて商品となりました。
私は完成したテンションディスクの海外販路をマルイさんにお願いし、アメリカに渡りました。そしてトマックのマネージャに出会う事ができました。レーシングチームが無くなった私は、新しいサイクルスポーツとの関わりを求めてスギノテクノを退職し、アメリカ、ロサンゼルス近郊にオフイーを作りました。
その後販売軌道に乗り、tiogaのマスコットキャラクターもジョントマックとなりました。
私は運良くマウンテンバイク創世記に出会いました。
以上があらすじです。

これから少し長引きますがお付き合いをよろしくお願いします。

Eepisode 1

私はオランダから戻り、新天地でレーシングチーム監督兼、チームが勝つためのレース器材デザインに励みました。
海外遠征を続けるスギノレーシングチームが絶好調の時、新素材を使ったSUGINO75 componentが世の中に出た。
その中にはカーボンファイバーを使ったディスクホイールもあった。
ディスクホイールの開発のために海外のディスクホイール(モゼールがアワレコードで使った)を入手し、ストレンジゲージを貼り付けて解析をした。
コンプレッション構造の多方の数字を掴んだ。
そのまま時は過ぎていった。
レーシングチームは三浦さん、市川さん、安原さんなどで大活躍、私もチーム監督業で忙しくなっていました。
その後、景気が悪くなりチームも解散、私も新しく導入した二交代勤務で奈良健康ランドで仮眠しては昼も夜も働いた時期でした。
ある万年筆会社の製造システムを学びに広島に長く滞在する事になった。それはプラスチック部品の内製化をするためで、資格もとり成形機も2台導入しました。
昼夜フル稼働でした。
プラスチック成形部門を新規に立ち上げ、その勉強のおかげでやがて世に出るテンションディスクのホットラインである〇〇飛行機(株)や○○〇化学などとの交流が始まりました。
ディスクホイールは高すぎる。
なぜスポークホイールのような安くて優れたディスクホイールはできないのか?
安価でスポークのようなホイールがあれば選手達は喜び、会社も新しいビジネスが生まれると考えるようになった。
一度調べてみようと思い極薄のブリキで作った円盤にスポークの先端を32本溶接してホイールを組み上げた。製作にはフレームビルダーの入部正樹さんが手伝ってくれた。入部正太郎選手の今は亡き父だ。
そこから分析が始まった。
先ずはテンション構造の円盤ホイールの数字を集める事だった。
レーシングチームは解散したが、このまま会社を立ち去る事は出来ずに、この新しいレーシング機材の開発に没頭しました。
1984年桜咲く頃だったと思います。
随分昔ですね。

Eepisode 2

犬山自転車工業試験場通いが続きました。その結果、ホイールの解析結果が日本自転車工業便覧に掲載された。
スポークの様に引っ張りに適した新素材はアラミド繊維であり、〇〇化学と共にヨレヨレのスポーク作った。端部は金属なので300gとまあまあ。組み立て全てのホイール試験を行うと数字はスポークホイールと遜色無かった。
ただコストが高いだけでそのまま使う価値は見当たらなかった。
mathematicsはいつも正しい答えを導く。
テンション構造では数値が示す様にアラミド繊維が候補となった。グラスファイバーやカーボンファイバーでは現行のステンレススポークより劣った数値だった。特に復元率が劣った。
アラミド繊維でスポークの様な引っ張り構造のデザインを生み出さなくてはならない。
だがアラミド繊維は高価であり完全に幕にするとびっくりする値段になる。
ならばフィルムを貼り付けるか?
〇〇飛行機は真空炉を持っている。ハニカムサンドイッチで飛行機の翼を造ったりする企業であり
その方のアドバイスで繊維をプラスでサンドイッチする方向に決まった。
アラミド繊維は〇〇化学が束にしたり、編み込んだり、シートにしたり、ともかくリクエストの数字になるワイヤー造りに没頭した。
取り組んだ仲間の情熱が半端なかった。
木更津の研究所に泊まり込み、沢山のモデルを作った。
結果は編まないでグルーで束ねるストリングスになっていった。
間違っても呑みに行ったりはしなかった。夜は皆んなでアイデアを出し合った。
それも生産技術に載せた量産可能で歩留が少ないモノづくり。
末端価格を10万円割に設定。
いくら良くても高価だと流通しない。ここで材料が限られた。
生産コストも1日50セット100枚の生産で計算された。
はっきりしない目標の大きな輪が小さくなっていった。
目に見えてきた。
やっぱ一流企業の考え方は素晴らしい!「そこからかー」と目を丸くしました。
まだまだ夜勤、日勤をしていた時の話しです。
後の話しですが、このターゲットプライスが世界が飛びついた理由にもなりました。
作る企業も受注生産でなく、ロット生産が見越せる。
ありとあらゆる範囲で開発の目標が決まった。

Eepisode 3

360°全て同じ引っ張り強度のフィルム選びが始まった。
接着剤選び。接着剤トップ企業の〇〇化学もプロジェクトに加わった。
レジンコントロールは耐久年数を左右する。経年変化を考慮しての目標の耐久性は10年でスタートしたが、20年が常識の接着剤技術の世界、これ以下は考えられないと決まった。
さらなる目標は誰でも使える、自ら組み立てるディスクホイールにする事と。
要するに今使っているホイールのスポークの代わりに組み立てる幕構造体にする。
市販のリムを使おう。
全てのリムに適応。
市販のハブを使おう。
全てのメーカーに適応。
グループの垣根を超えて全メーカーの協力を得た。
スギノはサンツアーグループだったが、元新家工業自転車部門開発室に居たおかげでJBMグループのシマノさんにも協力を得られた。
糸張りが始まった。
タコ糸で碁盤の目にした。
いつしか一筆書きが数種類出来上がった。弦方向にストリングスがあるなんて想像もしていなかった。
その弦方向のストリングスこそこのテンション構造で幕構造の最高の利点となった。
ナイロン幕は皮膚であり、アラミド繊維はストリングス(筋肉)となった。
問題はどの様に同じテンションでこれが編める設備が作れるか?
そのコストはいくらかかるのか?
開発は徐々生産技術に移行していく。
もう一方では風洞実験場で空気抵抗試験を行った。貼るフィルムが3種類から選ばれた。またフィルムのカットも決定した。
もう少しでプロトタイプは出来上がるが、アイデアは底を付かなかった。
中の空洞部に発泡ウレタンで作った成形パーツを入れたらどうだとか、選択肢が減ってはまた増えた。
製造を担当する側からすればコアになる発泡材があれば、言わば皮膚の耐久性能は数段と上がる。リスクは減る。この細心の安全こそ時間を割いてでも追求する必要性がある。
ウレタンをフィルムで挟もうと、サブプロジェクトが始まった。
試験を繰り返し、数ヶ月量産化は遅れた。
研究費は増えるばかり。
結果的に発泡ウレタンは不採用となった。効果はそれ程望めなかった。
しかし、そのおかげでまた新しいローコスの生産技術が誕生した。
発泡ウレタンで組み立て治具を使う事で、安価にする事ができた。当初予定より大幅なコストダウンとなり、償却費が減少、販売価格が7万円台までどかんと下がった。
ここからが実走試験の繰り返しが始まる。
あー、レーシングチームがあったらと残念でした。

前半はこの3話で終わりました。
この後は新しく三船君達との実走や、ジョントマックとのアメリカのお話しをさせて頂きます。

Eepisode 4

数々のプロトタイプを作った。色々な試験も繰り返し数値化した。しばらく奈良のホテルに滞在する事になった。実装試験に向けての最終段階だった。
完璧では無い、スポークホイールよりどうしても劣る部分がある。

現在の様なリムなら問題ないが、トライアスロンの300gを切る超軽量チューブラーリムではネジ部が折れる。普通のスポーク組みだったらホイールはポテトチップになるんだが、テンションディスクだとネジが飛ぶ(当初販売した時もトライアスロンでこの問題が起きたから、現地メカニックに何時も出向いた。)
実走試験は先ずこの問題がテーマとなった。
実走試験は花園高校の後輩にお願いをした。オランダ行き望んでいた三船君の渡航の計画を検討していたので渡りに船だったと記憶している。
イケメンの彼は凄く頑張ってくれた。
テストコースは紀伊半島を縦断して勝浦に泊まり、また奈良へ帰るルート。登り降りとカーブが多い山岳ルートを選んだ。
夏休みと冬休みにお願いした。勿論それ以外の時は私も走った。
クリンチャーリムでのネジ折れは無くなったが、軽量チューブラーリムでは何日か目に折れたりした。そのデーターによりネジでは無くナット部の座グリを修正した覚えがある。
年末の実走試験は大変だった。シフトワイヤーも凍り、テストライダーも走れなくなって温泉に直行した事も何度かあった。
三船君には何度も苦労をかけた。
いよいよUCI、JCFへの申請となった。プロトタイプホイールを各ライダーに提供した。
その頃何度か渡米した。それはアメリカで大ブームが起きているマウンテンバイク用テンションディスク開発するための調査でした。
数を販売するにはこれだ。保守的なロードより、次々と新しさを追求するマウンテンバイクなら、雑誌も取り上げてくれるに違いない。こうしてマーケティングが始まりました。
全米のサイクルショップやレース会場を回りました。
遂にはアメリカに住み込む事になって行きます。

Eepisode 5

私は新家工業時代そしてスギノテクノ時代とも株式会社マルイとお付き合いが続いていた。スギノ75で開発したグラスファイバーのトークリップやバーテープはtiogaブランドにも採用して頂いた。
アメリカに何度も渡るうちに、販路を広めるにはどうするかの問題にぶち当たった。
ターゲットプライスを死守するには安定した生産計画であり、目標数に達ない受注生産なら価格は高くなる。最初のコンセプトから逸脱する。大切なのは流通させるルートの確保だ。
テンションディスクの人気は上々だが、売り方がイマイチだ。
対米に大きなマーケットを持っていたマルイに相談してtiogaブランドのテンションディスクを作り、販売をしていただいた。
当時のマルイ担当者にプロライダーとの折衝を取り付けて、スーパースターとのコネクションも出来ていった。
あの頃トマックはコロラドでは無くサンゲーブル山脈の付け根、西海岸に住んでいました(地名は思い出せない)。私の住むサウスパサディナからさほど遠く無かった。
彼とは何度か走りに行きテンションディスクをテスト。
水の無いダムを降りるジョンを見て驚いた。
その後彼はデュランゴに移りました。彼のガールフレンドはデュランゴ空港のレンタカーショップで働いていたから、何度も訪れる私に取っては便利な存在となった。もちろんレンタカーも事前に手配してくれていた。
その日がやって来た。
遂にマンモスレイクのNORBA全米ビッグレースでジョントマックは飛んだ!
豪快な音とフォルムは一躍話題となり、ミヤタがスポンサーしていたヘルボルトや、スペシャライズのオーバーエンドなど主力選手全てがテンションディスクを使うと言うとんでもない事態になった。
そしてマルイさんはジョントマックをスポンサーする事になった。
ロサンゼルスに程近いコースト110で15分足らずのサウスパサディナのコンドミニアムに生活拠点を置いた。紫色のジャカランダの花が満開になる頃でした。
スギノテクノを退職し、個人事務所デザインオフィース846を発足し、846ブランドのテンションディスク他、マウンテンバイクパーツのデザインを始めた。
バイシクルクラブでの連載やスギノテクノとの契約もあり、西から東までマウンテンバイクレース会場をくまなく回る忙しさだった。
バイシクルクラブでマウンテンバイクの魅力を数年に渡って日本に伝えた。
見る見るうちにテンションディスクは広まり、各サイクルショップに組み立て指導や、サポート選手のメンテナンスに全米を駆け巡る毎日となった。
結構有名人になった様だ。
そんな時に車椅子の選手とも交流した。階段や段差を簡単に登る車椅子用テンションディスクの開発をしたいと考える様になった。
マウンテンバイクレースにものめり込んだ。

次回は考え方が変わっていく私の分岐点にて最終話とさせて頂きます。

Eepisode 6

この物語は当初7月までかかると思っていましたが、スラスラと書けました。今回最終話をお届けします。
テンションディスクの効果は、
弦方向のストリングスが接地面の変形を抑えて転がり易くする。
地面からの衝撃を吸収する。
車輪の軽量化。
そして空気抵抗の削減。
私が開発を辞めて数年後のモデルは空気抵抗も、転がり易さの特長も無くした、発明コンセプトからも逸脱していった。目新しさだけでマウンテンバイクに特化してしまった。
但し軽量化は、より軽量になったようだ。
それでも私は一切関わらずに違う道を選ぶ様になった。クレームも付けないし評価もしなかった。発明者としての権利も主張しなかった。
「これもビジネス、仕方がない事だ」。
当時工場の売却、移転、生産地を海外に移行。どこもかも自転車関連企業に起こった氷河期の頃でした。倒産連鎖など日本から自転車の生産が消えた頃です。自転車の生産拠点が日本から台湾に移った、そんな背景があった。
私のアメリカでの関わり方は終わったと判断した。
いずれ消えていくだろうと、テンションディスクの運命も感じた。
充分働いたと思う。時代は変わり弦方向のストリングスが示した軽量リムよりも変形し難い高強度リムへ、そしてディスクブレーキへと時代は変化し始めた。テンションディスクのもたらした効果は高くサスペンションが駆動ホイールにも重要なファクターを占める事が立証されて行くが、ディスクブレーキでは全くデーターが無い。役目は終えた様だ。
やはり私が目指すのは段差を乗り越える車椅子のホイールだとフォーカスしたが実らなかった。気が乗らなかった。
それはテンションディスクの可能性より、どんどん違う方向に魅力を感じる様になって行った。
私はサウスパサディナのオフィースを閉じて帰国した。
オフロード車椅子のテンションディスクは出来なかったが、その後、車椅子が日本のスキー場を下る夢は叶った。日本のマウンテンバイク人気に海外メディアも注目してくれた。
テンションディスクのお話しはここまでですが、次回「あとがき」としてその後のお話しを少しさせていただきます。

あとがき

I want to say thank you.

この物語は
「その自転車いくらする」
「高いなースーパーカブ(人気の50ccバイク)買えるなー」
の時代のお話でした。
今では「その自転車いくらする」
「うわー信じられない、ええ車買えるがなー」の時代。
商品の価値を価格としたら、今の世の中なんか変だぞ。生産技術が追いついていないのかな、歩留もデカイ。B級品も大量に出回ったりして工業製品としては「秩序が乱れとる」と私の様な年寄りは口を揃えて言うだろう。
この200万のロードレーサーのフレームって、この前後100万のホイールて、それはプロトタイププライスでは無いのかな。そこから量産する、販売するターゲットプライス定めて世の中の身近な製品価格とつりあえる様に切にお願いしたいとこだ。
サイクルスポーツが身近なレジャーであり続けて欲しいと願う。
さて、帰国後のお話をフルスピードで紹介します。
沢山の方に協力して頂き白馬岩岳に株式会社スポレックを設立し、マウンテンバイクのビッグイベントを始めた。国内初の常設パークを作らせて頂いた。
3年ほどが経過すると白馬岩岳大会はマウンテンバイク最大のイベントと聖地となり「岩岳デビュー」がトレンドとなりビギナーもたくさん押し寄せた。特に夏場は林間学校などで毎日レンタルバイクが全て出払い、忙しさもマックスだった日々を思い出します。
スタートから4年が経過して海外から挙ってスーパースターが岩岳の大会にやってきた。トマック、グレッグ、ネッド、ミッシー、マルチネスとかまだまだ沢山のスター達。参加者は5,000人を超えた。
アメリカでの活動がここに繋がったのだと感謝しました。
車椅子のアメリカチームもやってきた。マウンテンバイクは国内に定着した。
素晴らしい思い出です。
これも全てテンションディスク効果だったと思います。
でも、残念ですが来日したスーパースターのホイールからはあの独特の快音は聞こえませんでした。
2000年を境にテンションディスクは減少して行き、その役割は終了しました。
長い間お付き合い頂きありがとうございました。

後何年かしたらテンションディスクは完全に忘れ去られるでしょう、「では、その前に」とテンションディスク物語を書かせて頂きました。
最先端技術に関われた環境を作って頂いた関係者皆様に深く感謝申し上げます。
テンションディスクは今でもコレクターの人気アイテムとして世界に沢山のファンがいます。
今回の物語も海外からメッセージが毎日の様に届きました。
幸せなことですね。
73歳になった私は、今でもサウスパサディナの夢物語り、マウンテンバイクの魔法にハマったままです。
きっと魔法は何時迄もとけませんね。

※この物語は自由にレーシング活動や開発をさせて頂いた杉野 安氏に捧げます。

20/March/2023

Tadashi Yashiro

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